プロフィール

育未の部屋へようこそ。管理人の自己紹介をします!

こんにちは!ようこそ、本ブログへ!

僭越ながら自己紹介です。

 

東京の郊外に、4人兄弟の2番目で生まれました。私が生まれたのは1992年、バブルがはじけて失われた10年がはじまったそんな時期。

私の父は、そんな時代背景からか私に「育未」という名前をつけました。「美しい未来に育ちますように。」そんな思いが込められているそうです。

すくすくと成長した私は、そんな父の温かい思いを受けて「美しい未来に育ちたいけど、なんならその美しい未来とやらを造っていける人間になりたいなあ」と思うようになりました。

私の兄弟姉妹は、姉、私、妹、弟という順なのですがまさに4人兄弟の2番目で3姉妹の2番目だと、基本的に放任主義がとられます笑。私は母や父に全力で甘えに行くタイプではなく、一人でずっとボーっとしているタイプでした。

そんなボーっとするタイプの真ん中は、13歳のときにある方々に出会います。それは旅行先フィリピンでのストリートチルドレンとの出会い。

この出会いが、今ブログを書く10年後の私までつながっています。国際協力、青年海外協力隊、ボランティア、日本と海外、そういったものに興味をもち始めました。

それから奉仕活動が単位のひとつとしてあった都立の高校へ。水泳部に入った私はとても楽しい3年間を送りました。中学のころから数学が大好きだったのですが、英語や国語が大の苦手だった私は2年の後期になんと文転。

将来は国際系の進路を選びたかったので、当時の英語力だと絶望的だと思い、なんなら英語を中心に勉強する大学だったら逃げられないとだいぶ大胆な選択をしたのでした。。。ただ、少し嫌いな国語と大の苦手だった英語を主軸に塾に行かずに独学で勉強した受験期間、本当に辛かった。でもその分得たものも大きかったんです。

そんなこんなで無事に大学に入学!そして大学1年生の夏にまず手始めにスタディーツアーに参加することにしました。行った国は受験時代からあこがれていたカンボジア。

そのスタディーツアーはもちろんカンボジアの人たち、文化、歴史、教育、そういったもののスタディでもあるのですが、私はいくつかの問いと疑問を持ちました。

今まで自分が正しいと思っていたものがそうでなかったと感じたときの喪失感。そして同時に湧き上がる違和感。帰国してからの私は「国際協力」という言葉が少し嫌いになったかのように、距離をおいて過ごしました。それと同時に自分がまず幸せになることを考えて、日本での生活を充実させていきました。

大学での生活は英語とは切り離せないくらいいくつかの授業は英語で行われていました。でも私は、とっても劣等感を感じていた。なぜならみんな帰国子女だったり留学帰りだったりなんか気取った感じなんだもん(気取ったように感じたのは私のただの嫉妬)、笑

TOEICだけでクラス分けをする大学側の対応も嫌いでした。

そしてその英語への苦手感は劣等感とも相まって大学に入って2年間払しょくできず。だがら私は強硬手段にでました、、!ロンドンに行きました!!でもお金なかったので長期でなく短期でいきました!!!

そしてそのロンドンで、英語力も伸びましたが、もうひとつ、大切な考え方を得ました。これは私の人生の中でもとても大事にしていきたい考え方です。

そして大学2年の冬にロンドンから帰ってきた私に、ついにゼミを決めるときが来ました。選んだゼミは「文化人類学」のゼミ。実は大学2年のころに文化人類学という学問にの存在を知り、それを専門とする教授の講義を受ける中で自分のなかにあったもやもやがすっきりする場面があり、文化人類学を研究したい!と思うようになったのです。

 

そして私は文化人類学のゼミでテーマをカナダの先住民のおこなう観光にしました。卒論のテーマですね。実際にカナダにフィールドワークに行って、先住民の住む村を訪れたり、先住民の方と実際に話したり、彼ら彼女たちがやるツアーに参加してきました。

私の人生史のなかでも上位に残る自慢で貴重な経験。10年後も20年後も忘れないでいられるようにここでも共用させてください♪

カナダ先住民を訪れた旅。私の自慢の20日間!(工事中)

そんな研究に没頭する中で、同時に就職活動を進めました。カンボジアに行ってから2年ほどたち、カナダ先住民の生き方を学ぶ中で自分の探していたものに出会えたので、カンボジアのツアーから少し離れていたのですが国際協力の道を志し、ここにきて青年海外協力隊への応募を視野に入れて進路を考えました。

青年海外協力隊になぜ新卒でなく、民間で働いてから挑んだのか。行きたいと思ってから10年経って応募するまでの理由とタイミングについて。(工事中)

そして青年海外協力隊を受けずに民間企業で数年経験することを選びました。目標は3年から5年働くこと!いくつかの企業でであった理不尽な就職活動を経て、ご縁のあった大手メーカーで3年働くことになりました。

 

大手メーカーでの3年間。いろいろなものと戦っていたら3年経っていました。たくさんの身についたこともあるしたくさんのいい人に出会えた。会社で出会った人たちはみんないい人ばかりでした。しかし、どちらかというとこの3年間はマイナスな感情が特に大きく動きました。やはり「組織」「会社」というものと自分との相性をひたすら考える日々。人が人間らしく、その人のペースを尊重して生きていくとき、どんな選択をしていったらいいんだろうとそんな問いを持ち合わせて。

たとえば、暗黙のルール、男尊女卑に感じられる文化、パワーハラスメント、会社からの納得のいかない評価、不透明な人事や制度、賃金、働く時間や仕事の効率、組織の呪縛、残業している人が一番偉いみたいな変な文化、自分の居場所のなさ、そして社内の人間関係。

きっと日系企業にならどこにでもあるような、昔からの悪習や古き良き?縦社会。「思い込み」や「常識」きっとどこにでもあります。自分が所属する会社だけでなく、世の中の会社の実態を一会社員として見ていくうちに「生きるって何だろう」、「働くって何だろう」と思うようになりました。

そういうものに時に従いながら、時に抗いながら、時に距離を置きながら、自分がここではここまでだな、と納得したのが入社して2年半たとうとするとき。そして引継ぎやプロジェクトの終了を見届けて、ようやく退職したのはもう3年経った頃でした。

「石の上にも三年」っていう言葉があります。戦略的に3年働こうとした部分もなかったといえばうそになります。3年働いているといいこともありました。でも答えをだしきれなかったからしょうがないけれど、もっと早く答えを見つけて辞められればよかったなあと思います。3年は、正直めちゃ長いです。

 

そして青年海外協力隊の合格が退職とほぼ同時に決まったので退職し、その後の9か月間はフリーターとして。そのあと3か月弱は青年海外協力隊の訓練を。

そして今、青年海外協力隊としてペルーで過ごす現在です。

 

 

これからも私のボーっと考えてでもたくましく生きたいと考えながらの人生は続きます。(らんま1/2を愛読書として育ったので天童あかねのたくましさに憧れているんです。)

歴史が増えたらまた更新しますね。

こんな私の25年のたどりをここまで読んでくださり、どうもありがとうございました!

これからよろしくお願いします。