青年海外協力隊になって思うこと。
それは
お互いの辛さなんて一生理解できない。
ということ。
物事全てに言えますが
「理解してもらえない」と嘆くのではなく
「理解してあげられない」と落ち込むのではなく
「理解なんてできない」という事実を受け止めて相手の心に寄り添うことこと。
それができればいいんじゃないかなって思います。
そしてなにより、理解できないからこそ、敬意が生まれる。
自分とは違ったバックグラウンド、自分にはない経歴、自分はしたことのない経験、自分とは出会ったことのない人との出会い。
そんな自分とは「違って」、知りたくても本人しか知りえない部分は誰しも必ず持っている。
だからこそ敬意をもって接することができます。
冷たい言い方かもしれない、でもその人のその時の状況や人間関係や活動を一番肌で感じて悩んで辛いと思っているのはその人自身。それはどの国での活動でも言えます。
例えば協力隊の話で恐縮ですが、
アフリカのとある国に派遣されている友人は私の辛さを完全には理解できない。
私もその友人の辛さを完全には理解できない。
アジアのとある国に派遣されている友人は私の辛さを完全には理解できない。
私もその友人の辛さを完全には理解できない。
中南米とある国に派遣されている友人は私の辛さを完全には理解できない。
私もその友人の辛さを完全には理解できない。
そして同じ国内であっても、ペルーの友人は私の辛さを完全には理解できない、そしてその逆もしかり。
理解したくても、できない。
自分が実際にその国のその町のその隊員にならない限り、完全に理解することなんてできない。
同じような経験をしたり同じような事件が起きたりしても、所詮「ような」なんですよね。
それは協力隊でなくてももちろんいえることで
会社員をずっとやっている人はフリーランスの気持ちは完全には理解できない。
新卒で起業した人は会社員になった人の気持ちを完全には理解できない。
両親に愛されて育った人はそうでない人の気持ちを完全には理解できない。
一人っ子は兄弟のいる人の気持ちを理解できない。
そしてすべてに言えるのは、その逆も然り。
同じ両親をもっていても、私は妹の気持ちを理解できないし、妹は私の気持ちを理解できない。
女性は男性の気持ちを理解できない。男性は女性の気持ちを理解できない。
したくてもできないんです。
なることができるのは「理解した気」だけ。本当の意味での理解はお互い、一生できない。
だから人は孤独で、わかってほしいって思って、自分が正しいって思いたくて、だれかを理解したいって思って、そうやって生きているのかなって。
理解はできないけれどそれは悲しいことではなくて、それはただの事実です。
大切なのは完全に相手の気持ちは理解できないけど、の「けど」。理解できないなら、どうするのか。
理解できないと分かったうえで理解しようと努めること
理解できないと分かったうえで心を寄り添うこと
理解できないと分かったうえでなんかあったときの支えになること
理解なんてできなくていいんです。そんなものは一生できません。
でも理解しようとしたり、心を寄り添えたり、支えたり。それはできます。
だから理解してもらえないと嘆くのではなく
理解してあげられないと落ち込むのではなく
ただその「理解なんてできない」という事実を力強くもドライに受け止めて
そのうえで相手を思いやれればいいんじゃないかなって思います。
理解できないからこそ敬意をもって接することができる。
理解した気になって相手の話を聞いた気になって共感したつもりになってしまうよりも、素敵なことですね。