農業

生き方の「有機農業」とビジネスの「慣行農業」

福島に来て農業に触れて思うこと。

有機、オーガニックで行う農業そうでない農業

化学肥料や農薬、農業を行う際には様々な手段があり、それらを使うことは今までの常であった。一方で、健康的に、土の力を、有機的に、となるべく化学肥料や農薬に頼らない形での農業も存在してきた。それはどちらか二者択一ではなくて、農家によって、また消費者の求めるものによってレベル感やこだわりは様々である。

 

私個人で言えば、農業で野菜を作りたいというよりは、土に触れたくて、どんな土がどんな野菜を作るのかを知りたくて、農業に興味をもっている。その意味で言えば、有機農業、土づくりに興味がある。

一方で、現在は農業生産法人に属し、地域商社の一スタッフとして働いている。そのため農業ビジネスを行っているわけで、扱う農産物は有機のものもあればそうでないものもある。私はどっちが正解とかどっちが正義かとかはなく、最近思うのは、その議論はある意味不毛ではないかと。

 

有機で農業を行う人を見ていると、生きざまがそこに現れている。農業を行うこと、土づくりを行うこと、先祖代々守ってきた土地を守ること、それがある意味使命であり、生きがいであり、生き方であるかの様である。それは大変美しく、頼もしい。

慣行農業というのは、従来の農業つまり有機農業と対比して農薬を使ったり化学肥料を使った形での農業を指す。これももちろん農家によってこだわりがあり、減農薬であったり化学肥料は使うけど農薬は使わない、であったり、その野菜を食べる方に見た目よく虫のいないものを提供したいであったりと思いは様々であることも知った。

 

農家の思いやこだわり、農業を行う目的はそれぞれである。有機であることもそうでないことも、そのレベル感もそれぞれである。そこに有機だからと、有機でないからと一刀両断する余地はない。

 

農業で生きて行くとき、それを売って買ってもらうというのが現代の資本主義の中での当たり前であり、それが現金収入として入ることで農家は生活を行う。その意味で言えば「売れる」ことは生きていくうえで何よりも大事であり、基本である。

生活をしていくうえで、また農作業をしていくうえで機械を買うこともあるし資材を買うこともあるし、お金がかかってしまう。一方で野菜の単価は100円、200円などであり、たとえ100売ったとしても10,000円。100を生産することも売ることも大変なのに、人一人が生きていくためには継続的にどれくらいの野菜を売っていかないといけないのだろうか…農業で生きて行くというのは本当に大変であることを、実感している。

 

その意味において「生きるための農業」と「生き方としての農業」への理解に大きくギャップがあることに気が付く。生きるためには、有機農業のように手間や時間がかかるものはレベルが高く、できるなら大量に同じ作物を農薬などを使ってどーーん!と作ってどーーーん!と売るのがやりやすいやり方。一方で、いろんな野菜をちょっとずつ、という少数多品目の農業や雑草抜き、虫取りに果てしなく時間のかかる有機農業は収量としてあまりとれないが、目的は収量をたくさん採ってたくさん売って…というものではなく、土を愛する農家としての生き方であるのではないだろうか。

 

無論、慣行農業を行う人に土を愛していない、生き方そのものではないと言っているのではない。そもそも重きを置いているものが違うのに、比較したりそれぞれを批判する余地などあるのだろうか、という疑問である。

 

誤解を恐れず簡単に言ってしまうと、お金を得るなら慣行農法が良いし、なにか有機的なこだわりを追求したいなら有機農業になる。これは、慣行農法を取り入れている人が有機的でないとかこだわっていないと言いたいわけでもないし、有機農業をやっている人がビジネスを求めていないと言っているわけでもない。あくまで、前提が異なるという話をしたい。

 

つまり、お金を得るためには慣行農業を行い、生き方として有機農業をやることがあり得るという話である。その場合、二者択一ではなく、2つのスタイルを取り入れた生き方が、存在してくる。

 

現に私は農家ではないが、一労働者として慣行農法での野菜を日々扱っており、そこには誇りがあり、いろんな人に新鮮でおいしい野菜を届けられること大変志高く仕事をしていると思う。いろんな人に野菜を届けたい、いろんな農家の野菜を売っていきたいという思いにも共感する。一方で個人的な生き方には有機への思いがあり、もし個人的に農業に携わるのであれば私は有機農業を行いたい。これは、自分のために行う土づくり、野菜作りである。それらが売れたらもちろん嬉しいが、それを行うことが私にとって「生きる」ということであるから行うのである。その場合において「売る」というのは副次的なものになってくる。

 

「野菜を作る」という行為にはビジネスの側面と生き方の側面とあり、それぞれにはどちらも手段と目的がある。

お金を得るためにビジネスとして「野菜を作る」こと

「野菜と作る」ことが生きることそのものであること

この2つの手段や目的は共通する場合もあるし、相対する場合もある。作る人によるのである。

 

それが福島に来ていろんな農家さんの仕事や生き様を見て、また自分も一部土に触れて感じたこと。有機がいいとかどうのこうのという議論は、そもそも目的によって異なる。目的が異なるのにあたかも同じかのように議論するのは不毛であると感じる。「農業」には正解も決められた正義もないのだと、感じるのであった。