青年海外協力隊

【新型コロナウイルスで緊急帰国】JICA海外協力隊の活動をストップして日本に戻ってきました

ペルーでJICA海外協力隊として1年活動してきましたが、世界的に拡大を続ける新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で世界中の全協力隊員の緊急帰国が決まりました。

本記事にはまずその流れと報告と、今の自分のちょっとした心境を書きたいなと思います。

1、中国に端を発し、次第に世界中に広がる新型コロナウイルス

2019年12月末に中国に感染者を確認し、2020年1月では武漢での感染などが報道されていました。私がいたペルーでもその感染病の情報は到達していて、情報が錯綜する中ステイ先のお父さんには「日本と中国から入国が禁止になった!」と1月中に話されました(この情報はデマ)。でもそれくらいペルーでも気になる「遠く」のニュースであったことは確かです。

私も中国での感染病が今後どうなるかをそこまで深く考えることはなく、ペルーでの日々を過ごしていました。日本でもだんだん流行っていくのを遠くからニュースで受け取り、ちゃんと帰国者の隔離、政府にしてもらいたいなと思っていました。

2、ペルーで3月6日、初めての感染者確認

そんな中、どんどん感染者を世界中に拡大していった新型コロナウイルスは、ついに2月の中旬以降中南米へ感染者を広げていきました。隣国でどんどん感染者が見つかる中、ペルーはまだ感染者が出ていないなと思っていた3月頭でしたが、とうとう3月6日に感染者が出ました。

ペルーで感染者が出たときには他の中南米諸国のほとんどで感染者が確認されていて、感染者が出るのは他の国に比べて遅い方ではありましたが、新型コロナウイルスのニュースはその時期のニュースの3割くらいを占めていて、ペルーでも注目されてきていたのでついに来たかという感じでした。

ちなみに感染者が出たのは、国際空港のある首都リマにて。私はリマから1200キロ離れた北部の小さな町にいたので、まだ安心できる環境にいました。

一方で、家族社会なペルーは一人が感染すると一気に感染者を増やす傾向もあり、1週間程度でリマをはじめとしリマ周辺都市にも感染者を確認し始めていました。そのため、3月11日には、全小中学校の休校が政府から言い渡され、後日大学や専門学校等もそれに該当することになりました。感染者を確認した3月6日から1週間もたっていないくらいの早い決断となりました。

3、ペルーの大統領令で、全ての国境封鎖と移動の禁止

学校の休校からどんどん政府の禁止令が追加されていき、例えばヨーロッパやアジアからの便を停止したり対海外での対策も進んでいきました。陸、海、空すべての国境も閉ざされ、ペルーは鎖国状態になりました。

その後移動禁止令が3月15日に出され、食糧調達や医療通院、銀行へ行く以外の不要不急の外出はすべて禁止になりました。この移動禁止は、州と州の大きい移動だけでなく、州内の町間の移動なども対象になります。また、町の中でも、不要不急であるものは禁止されました。

その禁止令はどんどん制限されていき、買い物等していいタイミングが、終日→朝5時から夜8時まで→朝5時から夜6時まで→朝5時から夕4時まで…などと変わっていきました。

最初の移動禁止令(自宅待機令)は3月16日から15日間で3月30日まででしたが、10日くらいしたのちその期間が延長になり、4月12日まで、4月30日まで、5月11日までと約2週間ずつ、伸びて行っています。

その間、外での娯楽などもできないですし、ランニングやスポーツももちろん禁止。散歩も禁止。家にいないといけません。ペルーではかなり自由を制限された日々が続いています。もしそれを無視して外に出た場合は、逮捕となり、多くの逮捕者が出ているのも事実です。

4、そんな環境下で日本に帰ることが決まりました

「全隊員が日本に帰ることが決まりました」と連絡が入ったのが、3月17日。すでにペルーは自宅待機令が出た後でした。多くの他国の隊員がその一時帰国にざわざわする中、私個人は、帰国することよりも「どうやって帰るの???!!」の疑問の方が大きく、帰国については全く考えられる状況ではありませんでした。

他の国の隊員は、同僚とハグして涙してきたり、急いでパッキングを強いられて数時間で家を出て来たり、帰国しなければいけない状況を嘆いたり、いろんな感情があったと思いますが、

それらすべての感情の前に私は、物理的に不可能な帰国に不安しか抱かなかったですし、そんな不確実性にあふれたペルーからの帰国決定に対して現実味を感じれずにいました。

他国の多くの隊員がいろいろな手段で帰国を実現していく中、ペルー隊員には全く情報は入らず、ただひたすらにペルーでの自宅待機を続けました。3月中にはほとんどすべての国の隊員が日本に帰国しましたが、そのタイミングでもまだ帰国に関する知らせはありませんでした。

そこまで来ると反対にその状況に慣れても来るもので、今後帰国しなければいけないのはわかっていつつ、ペルーでの自宅待機生活をあまり辛いと感じることなく過ぎていきました。慣れってすごいですね!でも自宅待機の状況は改善することはなかったので、3日に一度マーケットで食糧調達をする以外に何か外に出ることもなく、家でひっそりと工夫してなるべく楽しんで過ごしていました。

5、いよいよ帰国の時

そんな中で4月上旬に入った帰国の案内。正確にはどんなスケジュールで帰国をするのかは、ペルーを出る前日までわからなかったのですが、まずは首都リマまで上がるように指示が入りました。

陸路移動も最大限禁止になっているので、私の町から州都に上がることもまずできず、そこからスタートでした。タンボグランデからピウラまで、特別に国が許可した証明書で通ることができました。

そしてピウラからリマまでは陸路で20時間。これも、リマからメキシコまでの飛行機があることを前提に国が許可を出してくれるらしく、それを持っていたので厳しい検問などはなく、通ることができました。途中路上のトイレだけ寄って20時間の旅。後にも先にも、20時間車で移動するのはこれが最初で最後かもしれません。

そしてリマについて1泊。他の隊員がみんなリマに集結するのを待ちました。そしてペルーからメキシコへ飛び立ち、メキシコで数泊して次は成田空港まで。成田空港で体調チェックをしてその近くのホテルで2週間隔離の後、実家に戻りました。

任地から日本まで、1週間かかりましたが、それをかなえるにはいろいろな条件が整わなければならず、感染しないようにもとても注意したし、JICA在外事務所側もいろんなところへのやりとり(主に日本大使館)などで調整をしてくれて、ペルー政府から許可を得ることで帰国が叶いました。

今回の帰国に関してはとても神経を使ったし、ただ任地を離れるというだけではなかったので正直に言って心から任地にお別れをしてくることはできませんでした。もっと全身で任地にまたね!って言ってきたかったけれど、それ以上に帰国を無事に達成することという大きなミッションがあったので、心ここにあらずな感じで。実家について3日経った今でもまだふわふわした感じがします。

6、感染者を増すペルーの状況

私が日本に到着したのは4月15日でしたが、その約2週間後にホテルを出るまでの間にペルーの感染者数は2万人近く増加しました。もともと1万人ほどいた感染者数は3万人まで上り、3倍の感染者を2週間のうちに出しました。そしてその感染者数はどんどん拡大していっています。

私が任地のタンボグランデを出たときは、町内感染は確認されていなかったのでこのまま誰も出ずにコロナが終息してほしいと願いましたが、現在私の町でも10人ほどの感染者が出ています。しかしながら医療機関は受け入れができないので、新規で感染しても断られる人も多く、本当に心配しています。

ここまで制限をしているのに感染してしまうのは、家族社会という特徴もあると思いますが、制限があるのにもかかわらず外に出てしまう人がたくさんいるからとのこと。日本では陽性者が出たらその人がいたところを消毒したりその人を隔離したりしていると思いますが、ペルーでは平気で外に出たり労働を続けたりという事例もあるそうで、そういう行動が拡大をどんどん続けてしまっている状況があるのかもしれません。

3月末に他の国の隊員がどんどん帰国していったとき、日本でも、特に東京での感染もどんどん拡大していきました。ペルーでその状況を見ていて、「タンボグランデよりも東京の方が危ないじゃん…帰らないほうがいいんじゃ…」というのが正直持っていた感想。でも実際東京に帰って来てみると、そしてペルーの拡大した状況を知ると、正直今思うのはペルーに(家族などの身寄りもいなく)1人でいたら危なかったかもしれないという感想です。

JICAボランティアと似ていると言われる韓国の「KOICA」と、アメリカの「Peace Corps」はJICAよりも早く全世界のボランティアの撤退を決め、それに続く形でJICAボランティアも全隊員の撤退が決まりましたが、このカオス化してきた世界の状況を勘案するとその決定は正しかったなと今特に思います。

7、私と協力隊活動の今後

4月下旬に協力隊事務局から連絡が入り、7月上旬の時点で再赴任の見込みがない場合、合意書解除、つまりボランティアとしての契約が切れるということを告げられました。もしコロナが収まらなくて終息も見込めなかったら8月以降はJICAボランティアではなくなる、ということです。反対に、それまでに再赴任の見込みがあれば、おそらく再赴任までは待機で、再赴任から残りの任期分現地に戻れることになります。

もし再赴任の見込みが立たず、そのままボランティアでなくなってしまう場合は登録制度として、もし世界の状況が安定して再度現地に行けるとなったときに行けるようにしてくれるように検討してくれるみたいです。

上記の話を日本に帰ってからホテルにいるときに聞き、ボランティアでなくなってしまうことに正直とてもショックを受けました。家に帰ってから今後のことを考えようと思い、とりあえず5月中は様子を見ようと思います。

タンボグランデでいろんなものを「途中」にして置いてきてしまったので、いかなる形であっても命ある限り将来的に任地に戻ると思います。できたらそれが協力隊としてであることを願いますが、いろいろな事情で任地変更になったり、ボランティアとして任地に戻ることができなければそれはその時どういう形で帰るかは考えようと思います。

そのため、まずは7月の決定まで任地に戻れるという判断になった時のことも考慮して過ごそうかなと思います。私は任期短縮をする気は今のところありません。しかし働かないと生きていけないので、短期的に働ける仕事を探すか、私の現状に理解のある場所を探すかをするかなど今後考えて行こうかなと思います。

なるべくその間も任地とのつながりを消さずにいろいろな形でつながっていけるように考えようと思います。戻れるかわからない状況で活動を続けていくのも結構しんどいところもあるのですが、新型コロナウイルス後の国際協力もどんどん変化していくことも予想されるので、まずは無理のない範囲でタンボグランデのためになるようなことができたらいいなと思います。

遠くにいてもできること。今は自分の状況も正直心配であるけれど、それ以上にタンボグランデのみんなが心配であり、第二の故郷にできることを考えて微力でも実行していこうと思います。