生き方・働き方

この世は「あの時ああいえばよかった」の後悔が生むデタラメでできているのか?

この世の中は「デタラメ」でできているのか。

先日私は、ペルーから帰ってきて初めて帰国報告会なるものでペルーでの生活を非協力隊関係者に共有する機会を得た。終わった瞬間から、もうすでに反省の嵐である。

 

ああ言えばよかった、こう言えばよかった。

遠回しにいすぎたな、ダイレクトに言い過ぎたな。

あの表現よりこの表現のほうがよかったかも。

どうしてこの回答があの時出てこなかったんだろう。

 

思えば、小説モモに出てくる話をゆっくり聞いてゆっくり物事を考えるおじいさん(ベッポ)タイプの私にとっては、その場で一問一答をしてその場の人たちに参考になる語りをするのは至極苦手分野であり、今までも似たようなことがあるたびに反省してきたではないか。

その言葉を発した3分後には、反省をする。

ああ、どうしてこういう表現ができなかったのだろうと。

許されるなら撤回して差し替えたい。

そのくらい私の「その場の回答」は、本人でも驚くくらい再考したそれとギャップがある。

 

そう思うと、世の中はなんてでたらめなんだろう。そう思った。

 

その場で回答したものをリスぺクトできず、後に猛省をする人は私だけではないだろう。

 

となると、多くの部分ででたらめが起きることがある。

 

誰かが何かの話を突然尋ね、それに丁寧に答えたとして、3分後には物事を追加説明したくなり前の発言をすべてだと思わないでほしいと思ったとする。

一方で、その回答をされたほうは、受け取った答えを基本的にその人の意見と解釈し、理解する。

もうその時点で「考えの共有の失敗」が起きている。

 

そんなことがいたるところで起きていたら、この世の中でたらめだらけではなかろうか、と思うのだった。

 

そうは言いつつ、実際今回人前で1時間半質疑応答をしてみてこう猛省するということは、そもそもその言葉を受け取った相手のことを信じ切れていないし、嫌われる勇気も持ち合わせていないのでは?という自己分析にも至ったりする。

 

結局のところ、このでたらめに見える世の中を自分なりに飼いならすとしたら、

  1. 自分の言葉足らずにより違う角度で解釈されること自体を恐れずに相手の評価を気にするのではなく自分の心に手を当てることの大切さと
  2. 一方でその相手のことを信じて、自分の言葉足らずな表現だけを一面的にとらえて解釈されるのではなく、周りの含みの部分も解釈に含めてもらえるだろうと信じてそれ以上気にしすぎない切り替えの力をもつこと

が必要なのかもしれない。

 

不特定多数に対する瞬発的な回答の不十分さに今まで私は必ず猛省していたが、1や2の視点を持って構えておくことで、その猛省を最小限に抑えられるかもしれないのだろうか。

 

世の中はもともとでたらめであり、そこまで猛省する必要はないのかもしれない。

今日の帰国報告会、個人的には反省点の多かったものではあったが、まずは先方を信じて、周りを気にしすぎない勇気を持って、でたらめをでたらめと認識することから始めよう。

 

小説モモのベッポじいさんの感覚は現代の日本人にぜひ共有したいので、小説モモの紹介も下記させていただく。

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もし今、あのときああいっておけば・・・と猛省するあなたがこれを読んでいるのであれば、大丈夫。どう猛省したところで過ぎたことは過ぎているのだ。世の中はデタラメだらけだと考えよう。

その後悔が致命的なものであるなら、次の相手とのコミュニケーションをちょっとだけがんばろう。致命的でないなら、もう十分反省しただろうから、次のアウトプットの機会に備えてちょっとだけ、ああいっておけばよかったリストをメモって、あとは忘れてポテチとコーラで気分を変えよう。GOOD LUCK👍